日常生活のプロトコル | Interlude

「1人で海外へ旅行に行った」という話になると「よく1人で全部できるね,旅行中困らないの?英語話せるんだっけ?」とよく言われる.実際のところ「英語を話せる」というレベルにあるかは非常に微妙なラインで,少なくとも「流暢に話せる」というレベルには全く無い.それでも旅行中に口を開かないといけない時なんて,「飛行機やホテルのチェックイン」「出入国審査」「買い物」くらいなもので,数パターンの定型文しか使うことは無い.そういう意味では旅行において求められる「英語を話せる」に求められる最低限のレベルは,意外なほどに低い.
それは自分が海外旅行をしてもなお,どちらかと言うと内向的だからかもしれないが.現地の人や他の旅人とコミュニケーションを取ってワイワイやりたいみたいな話になると,もう少し求められるレベル感は上がってくるけど,あまりそういうこともないし.
とは言え今回の旅は18日もあったので,それなりに“非定型”の英語を話す機会はあった.自販機使うためにホテルで小銭に両替してもらったり,近くのスーパーの品揃えがショボくて急遽2泊目だけホテルの朝食を追加したり.スイスではホテルのチェックインに必要なメールが届かなくてスタッフとてんやわんやし,マルタではコインランドリーの使い方を教えてあげた.教えてもらった,ではなく.同じくマルタでは何故か石鹸が出なかったり手を乾かす温風が出ない故障した洗面所に遭遇して,同じく手を乾かせないお兄さんと一緒に「ちくしょう!」とボヤいて笑った.カターニアではバスターミナルを探していたイスラエル人の夫婦と一緒にバスターミナルまで歩きながら雑談した.
ところで海外旅行で感じる文化的なギャップのひとつとして気づいたことがあるのだが,日本人って日本で海外旅行客に初手で「ハロー」って言うことが多いと思うんだよな,「こんにちは」ではなく.
日本人はだいたい英語コンプレックスみたいなものを抱えているように思う.観光立国たるもの英語で対応できるようにするのが筋である,みたいな思い込みもあるんじゃないか.ただ実際のところ,英語が広く国民に使われていて,英語で当たり前にコミュニケーションが完結する国なんて,実はそう多くはない.ヨーロッパ各国を旅しても英語が通じない人は普通にいるし,スーパーでも駅でも最初に声をかけられる時は現地語で声を掛けられることが多い.それで「は?」みたいな顔をしていると英語で話を続けてくれる人もいる,が,それでもなお現地語でわーっと捲し立てられることもある.
今回旅した国で公用語に英語が含まれるのはマルタだけであった.そしてそのマルタも日常会話で実際によく聞くのはマルタ語だ.ドイツ語,フランス語,マルタ語,イタリア語が使われるエリアを周遊したことになる.最近の旅行では「現地の言語を少しでも勉強してから旅に出る」ようにしていたものの,さすがに4ヶ国語には手が回らなかった.
一番滞在期間が長いイタリア語をDuolingoで少しだけ勉強したのだが,文章で言えるのは「私は◯◯です」「私は日本から来ました」「私は兄がいます」「クロワッサンとカプチーノをください」だけである.少なくとも朝食のクロワッサンとカプチーノは頼むことができるようになったが,あまりに準備期間が足りなかったと言わざるを得ない.そして私に兄はいない.
シチリアでは何故か(直通のはずの)バスに乗っていたら謎のターミナルでバスの乗り換えをする羽目になったのだが,バスの運転手は英語を解さなかった.「station?」と尋ねたら「何言ってんだこいつ?」みたいな反応をされた.フランスでも買い物をしていたらフランス語で何か言われたのだが,こちらはフランス語の勉強に手が回っていないので「???」という感じだった.
そんな体たらくでも18日なんとかなるのは,「人類の日常生活というプロトコル」を共有してるからなんだろうな,と思う.言葉は解さないが,言葉が実装される土台になった現代社会の生活というものは,多くの場合それらは共通で.だからこそジェスチャーでなんとかなったり,何ならジェスチャーがなくても何故か知らないはずの言葉を理解できる.
フランスのスーパーでは会計時に何か言われて,言葉は全く分からなかったが多分あれは「レジ袋いる?」だと思った.「買い物をしていて会計時に何か聞かれる,多分数字ではない」ならそれはレジ袋の有無を聞くという生活感を共有しているから,それが成り立つ.そして同じシチュエーションがイタリアでもあった.イタリアでは「Busta?」と聞かれた気がする.イタリア語はDuolingo効果で本当に少しだけ聞き取れた気がしたので,調べるとやはり「レジ袋」という意味だった.
だから「よく1人で全部できるね,旅行中困らないの?英語話せるんだっけ?」という問いは全く無意味であって,言語より手前のプロトコルを共有しているから,少なくとも現代地球の,そしてある程度文化や発展度合いを共有した国では,最悪言葉なんて話せなくてもどうにかなるのである.
翻って,言語を共有しているがカルチャーと考え方というプロトコルを共有できていない時——仕事をしているとよくあるだろう,そういうことが——のほうが,よほど苦しい.なまじ表面上の言葉を共有しているが故に意思疎通できた気になって,上っ面の認識一致と,でもその裏は認識齟齬が潜んでいて.だいたい仕事のストレスってそのせいだと思うし,理解し合えたと誤解しない分,言語が異なるコミュニケーションのほうがむしろ楽かもしれない.