ミルフィーユとティラミス。ケロシンとアンモニア。 | Interlude

—— Why did he leave?
今,眼の前には,再来月丸ごとの有給休暇がある.夢焦がれた長期休暇が現実のものとして,そこにある.あれだけ「もっと長期の休みがあったらなあ」と言っていたのだから,1ヶ月もの休暇を有意義に使うプランが腐る程湧いてくるであろう.
そう思っていたのに,休暇の使い方は頭に浮かんでは消え,一向に具体的にならないのだった.
新卒で入社した会社を辞め,転職することにした.退職時に残った有給休暇はおよそ30日弱.よくもここまで貯めたものだ.有給休暇なんてもっとサクサクと使っていけそうなものなのだが,現実には不思議と危うく消化しきれなくなり消えてしまいそうな休暇を年度末に無理やり消化しつつ,年次を重ねるごとに繰り越す休暇が増えていく.
7年目ともなると,20日付与された休暇のうち15日を翌年度に繰り越して新年度が始まる,そんな状態.そしてそれをほとんど抱えた状態で会社を辞める決断をした.
ということは,その有給休暇を消化せねばならない.
これまで,社会人になってから手に入れた連続休暇は最大で9日とか,あとはカレンダーの並びに恵まれたGWと有給休暇の組み合わせでもう少し長い休みがあったかもしれないが,だいたい10日というのが一番長い休暇になる.その約10日の休暇を使って海外に行き,成田空港に帰国——羽田から出国することはあったのだが,何故か帰国は毎回必ず成田になってしまう——するたびに,「ああ,もっと長い休みがあったなら……」とぼやく.
そこへ,転職先への出社初日までの38日間の休暇が突然に出現した.さあ自分よ,「ああ,もっと長い休みがあったなら……」が現実になったぞ.望みを叶えられるぞ.38日あったら何をしたいんだ?
そう問いかけても,意外と答えは帰ってこない.
これまで「ああ,もっと長い休みがあったなら……」と言いつつも,10日弱という期間の制約があればこそ旅行の計画をできていたという節がある.制約あればこそ迫られる取捨選択によって旅程は形作られていく.本当はポルトにも行きたい,サン・セバスティアンにもバルセロナにも行きたい.でも9日では足りないから,今回はリスボンとスペイン南部を中心にしよう,と.そうして旅の計画は出来上がっていく.
そこに突然,「海外旅行はだいたい9日」という暗黙の了解を38日の有給休暇がぶち破ってきて,辻斬りにされたのである.38日となると制約がない.ポルトにもサン・セバスティアンにもバルセロナにも行ける.それでもまだ時間はある.そのままアンドラにもモナコにもいけるぞ?
38日もあればどこにでも行ける.そうなってくると,最早どこで何をしたら良いのか,見当もつかない.ただ厄介なことに,「どこにでも行ける」と言いつつも,実際に「どこにでも行く」には時間が足りない.38日という期間は「どこかだけに行く」にはあまりに長く,「どこにでも行く」にはあまりに短い.
そんなわけでずっと旅程に悩みつつ,並行して現職の仕事の引き継ぎに悩み,そして転職先向けの書類手続きをして,なかなか休暇中の計画に頭が回らない日々.色々な国をつまみ食いして地球一周と洒落込むか,アフリカ大陸を縦断するか,欧州を周遊するか.どれでもできるが,全部できるわけではない.何をやろうにも,どこに行こうにも決め手に欠ける.38日という茫洋として揺蕩う有給を前に完全に立ち尽くしている.
そんな折,「なんで転職することにしたの?」と何度も聞かれて,その都度答えが違う自分がいることに気づいた.ある時はポジティブな理由を,別の時にはネガティブな理由を.そしてそのどれもが嘘ではない.人が転職をする理由は,なるほどミルフィーユみたいなものだなと思った.色々な理由が積み重なって,どこから食べるかによって見える景色は全然違う.
「ミルフィーユ」.これをキーワードに旅程を決めようと思った.となれば行く先はイタリアだろう,と思う.元々,来年の長期休暇はイタリアに行きたいと思っていた.シチリアを中心にイタリアを巡る旅をしたい,と.
そう思って計画を立てはじめてから,「ミルフィーユといえばイタリア」という思考回路に重大な瑕疵があることに気づいた.この時脳内に浮かんでいたのは,実際にはミルフィーユではなくティラミスだった.ミルフィーユとティラミスを混同して旅先をイタリアに決めるという痛恨のミスである.ミルフィーユはフランスのお菓子らしい.そうなってくるとフランスも旅程に組み込まないと,フランスに申し訳が立たないというものだろう.
ミルフィーユとティラミス.これを旅程に組み込む.それがいつもの期間の制約に変わって,今回の旅の制約条件になった.
ミルフィーユとティラミスの取り違えから生まれた旅行計画は,18日でドイツ・フランス・スイス・マルタ・イタリアを周遊する旅になった.あれ,38日はどうなった?と言いたいところだが,いい機会なので実家でノンビリする時間も欲しかったし,旅行を終えて帰国してから入社日までにノンビリする期間も欲しかった.さすがに38日ぶっ続けで旅をして,さあ翌日から出社ですというわけにはいかなかろう.
38日と比べると18日という旅程はいささかショボく見える.計画を立てた時は大した事ないな,とすら思った.ところが旅行の準備を実際に始めた途端,これは大変な計画にしてしまったかもしれないと急に怖くなった.
だって,18日って.今までの海外旅行の2倍もあるじゃん.2倍あるとどうなるか.色々モノが足りない.具体的には着替えが足りないということに気づいた.というか,18日分の着替えを持って行くのは現実的ではないので,現地でコインランドリーにでも行くことになるのだが,果たして海外でコインランドリーをスムーズに使えるんだろうか.更に言うと,旅の途中で洗濯するにしても服が足りない.急いでユニクロに買いに行く.「まだ使える」と言っていた踵の擦り切れそうな靴は,さすがにヨーロッパで靴底に穴が空いたら嫌なので新しい靴を買った.
他にも色々足りないもの,考えないといけないことがあって,荷造りを終える頃には不安はピークを迎えていた.勢いでこんな計画にしたけど,無事に旅を終えることはできるんだろうか?って.
これまでに無いほどパンパンになりとても重いスーツケースを転がして,中央線に乗った瞬間も,羽田空港に着いた時も,まだ不安だった.「まだ不安」というか羽田空港が不安のピークだった.ここから先の3週間弱,日本には帰ってこれないぞ,という現実を突きつけられるからだ.
ただその不安は,ルフトハンザの飛行機に乗り込んだ瞬間に吹き飛んだ.やはりあの,飛行機特有の匂いが良いんだよな.機内に足を踏み入れると感じるあの匂いは,ケロシンという飛行機の燃料の匂いらしいのだが,あれが好きなのだ.あの匂いを嗅ぐと「旅が始まるぞ!」というワクワク感が湧いてくる.そして自分の席を探しながら歩いてギャレーの横を通り過ぎるとふわりとコーヒーの匂いがするのだ.匂いの共感覚性で引き出された過去の楽しかった旅の記憶は,18日間分の不安は無事に飛ばした.

ああ,やはり海外旅行の匂いは良い.日本にはない匂いこそ海外旅行.たとえそれが,最初の宿泊地,ドイツはフランクフルト,治安の悪いと言われる中央駅前で鼻を撃ち抜いたアンモニア臭だとしても.